ロベルト・ロッセリーニと映画
単行本
自身の文章や声による単行本で最近のものとしては、以下のようなものがある(なお、ロッセリーニは1977年6月3日に死んだ)。
Roberto Rossellini: Il mio metodo. Scritti e interviste . a cura di Adriano Apra', Marsilio, Venezia, 1987. (日本語の抄訳は、ロベルト・ロッセリーニ:『私の方法』 、アドリアーノ・アプラ編、西村安弘訳、フィルムアート社、1997)
なお、邦訳書で省略された文章は、「カイエ・デュ・シネマ」 誌のインタビュー2編以外では以下のとおり。
「小説家ロッセリーニ」 R. M. デ・アンジェリス編
「私は知的になろうとし始めると一杯食わされるのだ」 ロジェ・レジャン編
「ロッセリーニは自己弁護する」 フェルナルド・ディ・ジャンマッテオ編
「なぜイングリッド・バーグマンを選んだか」
「『ストロンボリ』事件」
「ある不完全な映画のために」 フランシス・コヴァル編
「『ヨーロッパ '51』、あるいは順応主義の悲劇」 ジージ・カーネ編
「映画の危機」
「カイエ・デュ・シネマによるインタビュー 1」 モーリス・シェレール、フランソワ・トリュフォー編
「公式的な映画に対抗して」 フランソワ・バルド、アラン・ビュオルツェ、アルノルド・コレール、ジャック・リアル編
「いかにして映画を救うか」 アンドレ・バザン、ジャック・リヴェット編
「服を身に纏う人々と縫った服を着る人々」 フランソワ・トランシャン、ジャン=マリ・ヴェリテ編
「新しい映画に同意する。1959年、ヴェネツィア」
「観光・文化省への公開書簡」
「『ロベレ将軍』について」 ジャン・ドゥーシェ編
「ネオレアリズモは死んだ」 グリエルモ・ビラーギ編
「私はガリバルディを西洋の英雄にはしなかった」
「『イタリア万歳』についての『パエーゼ』紙への手紙」
「エルフェール閣下への二つの公開書簡」
「視聴覚メディアと科学的・産業的社会の人間」
「シネマ・ヴェリテについての座談会」
「カイエ・デュ・シネマによるインタビュー 4」 フレイドン・ホヴェイダ、エリック・ロメール編
「変わる世界のための、別の映画――映画実験センターでの座談会」
「私たちの中にある希望を守ること」
「宣言」 署名:R・ロッセリーニ、G・アミーコ、A・アプラ、G・V・バルディ、B・ベルトルッチ、T・ブラス、V・コッタファーヴィ
「第2回新・国際映画祭への手紙」
「現前の知性」
「なぜパスカルか」 ジュゼッペ・ナーヴァ編
「国営テレビの口頭弁護」
「永遠の教育のためのプログラム」
「科学と社会」
「ある真実の人」
「『元年』についての『パエーゼ・セーラ』紙への手紙」
「『元年』についての『クオティディアーノ・デイ・ラヴォラトーリ』紙への手紙」
「イエスについて語ることは反動的なのか?」
Roberto Rossellini: Quasi un'autobiografia . a cura di Stefano Roncoroni, Mondadori, Milano, 1987. (日本語訳は、ロベルト・ロッセリーニ:『ロッセリーニの<自伝に近く>』 、ステファノ・ロンコローニ編、矢島翠訳、朝日新聞社、1994)一部の翻訳
Roberto Rossellini: Il mio dopoguerra . a cura di G. Fofi, E/O, Roma, 1995. (『私の戦後』)
フィルモグラフィー
スタッフの名前などについては、上記の邦訳の『私の方法』 の巻末のものが最もまとまっていると思われるが、ここではそれについての補足訂正として記す。
日本で公開されたことがあるものは原則的にそのときの題名に従い、その他は適当に訳した。邦題が原題の直訳と異なる場合は、〔〕で示した。年号は原則的に、公開年ではなく製作年。
なお、後期の作品はテレビ用に作られたものが多いが、そのほとんども35mmフィルムで撮影されている。
監督作品
『ダフネ』 (1936)
タイトルは、アポロンの愛を拒み父のラドンに助けを求めて月桂樹に変身したギリシャ神話のニンフ。『牧神の午後への前奏曲』 とともに自然に捧げられた短篇で、ともにローマ近郊のラディスポリ市の別荘の公園で撮影されたらしい。1935年とする資料もある。
『牧神の午後への前奏曲』 (1936)
弟であり、その後大部分の作品の音楽監督をすることになるレンツォ・ロッセリーニがドビュッシーのファンであったことから撮られたフィルムで、ほとんど裸のようなタイツを身に着けた男女が田舎をさ迷い歩くといった短篇。未完であり『ダフネ』 と同じものと推定する資料や、1938年とするものもある。
『海底の幻想』 (1939)
ジェネペスカ社(冷凍食品製造の先駆的企業)から依頼された、深海の魚の生活についての短篇ドキュメンタリー。実際には「フィクション」で、最初の妻マルチェッラ・デ・マルキスによれば、ラディスポリ市の別荘に水槽のようなものを組み立て、透明にするためにシーツで漉した海水と、チヴィタヴェッキア沖で捕ってきた魚を入れて撮影したものであり、かなりの魚は輸送中や撮影中に死んだため、細いひもを付けて透明な葦で動かしていたらしい。1937年とする資料や、1938-40年とするものもある。
『尊大な七面鳥』 (1939)
短篇。1940年とする資料もある。
『元気なテレーザ』 (1939)
短篇。1940年とし、未完とする資料もある。
『リパソッティーレの小川』 (1941)
ロッセリーニが初めて共同脚本・助監督としてクレジットを残した『空征かば』 (ゴッフレード・アレッサンドリーニ監督、1938)の製作をまとめたフランコ・リガンティ(その従姉妹はロッセリーニと同じマンションの間借り人だった)のプロデュースによる、ローマ魚類学協会のための短篇。
『白い船』 (1941)
海軍省映画センターの責任者だったフランチェスコ・デ・ロベルティス指令官の監修・原案・共同脚本による、初の長篇作品。イタリア戦艦のドキュメンタリー的な戦闘場面と、互いの顔は知らないが二つに割ったメダルを分け持っているペンフレンドの男女が、負傷兵と赤十字病院船の看護婦として偶然対面するというラヴ・ストーリーから成る。なお、石田美紀:「ロベルト・ロッセリーニの『白い船』−リアリズムとネオレアリズモのはざまで−」 という日本語による論文がある。
『パイロットは帰る』 (1942)
ギリシャ戦線で撃墜され強制収容所に捕らえられた主人公の飛行士は、そこでイタリア人医師の若い娘と出会い恋に落ちるが、飛行機を奪ってイタリアに帰らなければならないため、別れざるを得なくなる。製作・原案はヴィットリオ・ムッソリーニで、脚本にはミケランジェロ・アントニオーニが参加。ギリシャでの空戦から帰還できなかった飛行士たちに捧げられている「プロパガンダ」色の強い作品(後にロッセリーニは「すべての台詞は書き換えられた」と語っている)。
『十字架の男』 (1943)
ロシア戦線で捕らえられたイタリアの従軍司祭が逃亡に成功し、避難所となっていた農家に転がり込むが、そこで彼はロシア農婦たちに宗教的な安らぎを与えることになり、生まれてきた子供への洗礼を請われる。その後、ソヴィエト兵士たちが到着するが、司祭は彼らからも信用を得ていくことになる。
『欲望』 (1943-1946)
初の同時録音作品で、当初『貨物駅』という題名でローマの聖ロレンツォ駅でのロケが予定されていたが、爆撃で破壊されたため、アペニン山脈のアブルッツォ州タリアコッツォにセットが作られた。題名は『断念』『欲望』と変わり、またナツィストの視察に備えて主演女優をイタリア人からドイツ人に変更したが、結局資金難で中断。戦後に脚本も新しくなり、マルチェロ・パリエーロ監督によって完成した。
『無防備都市』 (1945)
〔開かれた都市ローマ。英題はRome, open city 〕ビデオあり
『戦火のかなた』 (1946)
〔同郷人〕ビデオあり
『ドイツ零年』 (1948)
1947年とする資料もある。ビデオあり
『アモーレ』 (1948)
〔愛、あるいは恋人〕ビデオあり
『殺人カメラ』 (1948)
〔悪人を殺すカメラ〕ビデオあり
『ストロンボリ 神の土地』 (1949)
ビデオあり。当初は「嵐のあと」というタイトルの企画。先にアメリカで公開されたRKO版は完全版(105分)より37分短かったらしいが、ちなみに現在販売されているレーザーディスク版(発売:アイ・ヴィー・シー)は99分。
『神の道化師、フランチェスコ』 (1950)
ビデオあり
『聖ブリジダ』 (1951)
短篇。主演はバーグマン。未完
『七つの大罪』第5話「ねたみ」 (1951-52)
『自由はどこに?』 (1952)
『ヨーロッパ1951年』 (1952)
『われら女性』第3話「イングリッド・バーグマン」 (1953)
『イタリア旅行』 (1953)
ビデオあり
『世紀半ばの恋人たち』第4話「ナポリ、1943年」 (1953-54)
『火刑のジャンヌ・ダルク』 (1954)
『不安』 (1954)
ビデオあり。ただしアイ・ヴィー・シーから販売されているのは、'77年にNon credo piu' all'amore (La paura) 〔私はもう愛を信じない(不安)〕のタイトルで公開されたもので、配給業者によってバーグマンの説明的なオフの声が追加され、自殺未遂のシークェンスを削除してハッピー・エンドに変えられた短縮・修正版。ちなみに、'90年1月31日にNHK BS2で放映されたものもこの版。
『心理劇』 (1956)
『ロッセリーニが見たインド』 (1957-58)
『私は良い旅をした』 (1957-58)
『ロッセリーニが見たインド』 のフランス語編集版
『インディア』 (1958)
〔インド――大地の土〕ビデオあり
『ロベレ将軍』 (1959)
ビデオは発売されたようだが現在品切れ
『ローマで夜だった』 (1960)
ビデオあり
『イタリア万歳』 (1960)
『ヴァニーナ・ヴァニーニ』 (1961)
『百年間のトリノ』 (1961)
『トリノは百歳』という題名だったとする資料もある
『二世紀の間のトリノ』 (1961)
『百年間のトリノ』 の短縮版
『黒い魂』 (1962)
『ロゴパグ』第1話「純潔」 (1962)
ビデオは発売されたようだが現在品切れ
『鉄の時代』 (1964)
『ルイ14世による権力取得』 (1966)
『ある島の観念』 (1967)
『生存のための人類の戦い』 (1967-69)
『使徒たちの行為』 (1968)
『ソクラテス』 (1970)
『ブレーズ・パスカル』 (1971)
『強さと正しさ(サルヴァドール・アジェンデへのインタビュー)』 (1971)
『ライス大学』 (1971)
『ヒッポのアウグスティヌス』 (1972)
『メディチ家のコジモの時代』 (1972)
『デカルト』 (1973)
『元年』 (1974)
『世界の人口』 (1974)
『人間の問題』という題名だったとする資料もある
『救世主』 (1975)
新訳聖書に着想を得て、「ナザレの人」(イエス)が、歩き、働き、祈り、彼のメッセージを広めるように使徒を駆り立て、十字架にかけられ、復活するまでを描く、最後の長篇作品。第一部:「期待の時」「授洗者とサマリア女」、第二部:「十二使徒」「山上の垂訓」、第三部:「良き羊飼い」「過越の祭」「復活」から成る。
『ミケランジェロのためのコンサート』 (1977)
ヴァティカンのシスティーナ礼拝堂でのドメニコ・バルトルッチ指揮の演奏を収録したテレビ作品。
『ボブール――ジョルジュ・ポンピドゥール芸術文化センター』 (1977)
協力
『天使たちの墓穴』 (1937)
監督:カルロ・ルドヴィーコ・ブラガリア
共同脚本・助監督:ロベルト・ロッセリーニ(クレジットはない)
『空征かば』 (1938)
監督:ゴッフレード・アレッサンドリーニ
共同脚本・助監督:ロベルト・ロッセリーニ
『三人の飛行士の卵』 (1942)
監督:マリオ・マッティオーリ
共同脚本:ロベルト・ロッセリーニ(クレジットはない)
『侵略者』 (1943)
監督:ニーノ・ジャンニーニ
監修・共同脚本:ロベルト・ロッセリーニ
『対抗(嘱託医)』 (1952、または1953)
監督:ジュリアーノ・ビアジェッティ
監修・共同原案・共同脚本:ロベルト・ロッセリーニ
『オリエント急行』 (1954)
監督:カルロ・ルドヴィーコ・ブラガリア
監修:ロベルト・ロッセリーニ
『シーワイフ』 (1957)
監督:ボブ・マックロート(あるいはマックノート)
共同脚本:ロベルト・ロッセリーニ(初版のみ)
『ベニート・ムッソリーニ』 (1961)
監督:パスクアーレ・プルナス
監修:ロベルト・ロッセリーニ(名目上のものとみられクレジットはない)
『カラビニエ』 (1963)
監督:ジャン=リュック・ゴダール
共同脚本:ロベルト・ロッセリーニ
主な参考文献
Gianni Rondolino: Roberto Rossellini , La Nuova Italia, Firenze, 1977.
Stefano Masi e Enrico Lancia: I film di Roberto Rossellini , Gremese, Roma, 1987.
Guido Michelone: Invito al cinema di Rossellini , Mursia, Milano, 1996.
ロベルト・ロッセリーニ:『私の方法』 、ステファノ・ロンコローニ編、西村安弘訳、フィルムアート社、1997.